一人を救うために何百人も投入し、救おうとされる以上の人々が亡くなっても助けるのが国家です!
今日はジャーナリスト安田純平さんが無事保護されたことを取り上げ、「一人を救うために何百人も投入し、救おうとされる以上の人々が亡くなっても助けるのが国家です!」と題して論説したいと思います。
下記はAFP通信の記事です。
『AFP通信 2018/10/28 17:02 シリアで拘束・解放の安田純平さん、喜びの帰国 ネットでは誹謗中傷も
【AFP=時事】内戦下のシリアで2015年に拘束され、先日解放されたフリージャーナリストの安田純平(Jumpei Yasuda)さんは25日夜に無事帰国し、喜びに沸く親族や支援者らの歓迎を受けた。拘束されていた3年余りを「地獄」だったと振り返る安田さんは、妻や両親との再会を果たした。
ただ、海外で人質になった安田さんのような日本人は、紛争地域に渡航する捨て身の行動で厳しい批判にさらされる。安田さんは帰国前からインターネットなどで、無謀さに対する非難から日本人ではないとの言いがかりまで、怒りに満ちたさまざまな誹謗中傷を浴びせられている。ツイッターでは世間に迷惑をかけているとの投稿や、安田さんを非国民扱いするつぶやきもみられる。(中略)
日本では解放された人質について賛否両論が出ることが多く、拘束されたのは自己責任だとする批判も珍しくない。上智大学(Sophia University)の寺田俊郎(Toshiro Terada)教授(哲学)は、人質は被害者であり法律に違反していないのに謝罪を求められるのは奇妙なことであるものの、それが日本社会の一部のものの考え方だと指摘し、安田さんは社会に迷惑をかけたとして非難されているとの見方を示した。
人質に対する反応の衝撃的な一例を挙げると、2004年にイラクで現地の武装集団の人質となり、その後解放された日本人3人は、帰国直後から自己責任論にさらされた。武装集団はイラクに派遣された自衛隊の非戦闘部隊の撤退を要求し、これに応じなければ3人を殺害すると警告した。
しかし当時の小泉純一郎(Junichiro Koizumi)首相は要求に応じず、人質の家族との面会も断り、強硬な姿勢が日本社会の一部で称賛された。右派メディアに支持された日本政府も、当時戦闘地域だったイラクに渡航自粛勧告を無視して入国した3人を無責任な若者たちと捉えた。
3人の一人である今井紀明(Noriaki Imai)さんは最近、「死ね」や「ばか」などと書かれている手紙を数通受け取った。今井さんによると、ネット上でのバッシングは10年続いたという。(後略)』
上記AFP通信の記事の通り、シリアで拘束された安田純平さんが無事保護されたというニュースです。3年4か月ぶりに解放さえれた安田さんは、10/25(木)夜に無事に日本に帰国しました。安倍総理は今回の解放にはカタールとトルコの協力があったと述べました。
自己責任とかお金の無駄遣いだとか、いろんな批判はあっても、私は安田さんの解放は大変喜ばしいニュースと思います。同じシリアに捕らわれた後藤健二さんは、ISに殺害されました。
フリージャーナリストが敢えて危険な場所に飛び込む行為の結果、テロリストらにとらえられることについて、「自己責任」という言葉が付いて回りました。
自己責任論という問題がある一方で、フリージャーナリストがいることで、初めて得られる情報があります。その得た情報が日本の国民の世論形成に一定の意味を持つ情報となることも数多くあり、フリージャーナリストとは、そうした情報を提供する人たちともいえます。
そうしたフリージャーナリストが捕まった場合、同じ日本国民だから同胞を救うために国税を使って、血税を使って救出するということになります。
そこで使った税金が無駄だという論説は正しいのでしょうか?
日本国家において、幅広い活動の一つであるフリージャーナリストが皆無になった場合、そうした情報は全く入ってこないということになるため、フリージャーナリストらが自分の身を守るための最善の努力をしている限り、適切な情報を収集している限り、必要不可欠な費用ともいえると考えています。
安田純平さんは難民を自分の目で確かめたいということでシリアに入国しました。そこで身の安全を怠っていたとか、普段から怠っていたというなら確かに問題です。
とはいえ現地に行かなければ、真実がわからないということはよくあることで、”百聞は一見に如かず”です。ジャーナリズムは非常に重要であり、特に民主主義国家においては、活動で得た情報が国民の世論形成に影響を与えるということから、非常に重要な職業であるといえます。
菅官房長官は記者会見で、安田さん開放について、官邸を司令塔とする国際テロ情報収集ユニットを中心に、トルコやカタールなどの関係国に働きかけを行った結果だと述べ、日本政府として身代金を払った事実はないと説明しました。
ただ、カタールが身代金を肩代わりしたという情報があり、一説によれば5億円という数字も出ています。
なぜカタールが肩代わりをしたのでしょうか?
カタールは2017年、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)から断交されました。イスラム原理主義のイランに近づいたことで、サウジアラビアなどの中東諸国から反発を受けたのです。経済制裁も受けており、食料の調達も困難な状況で、トルコでサウジアラビア人記者の殺害事件が発生しました。
その事件をきっかけに、主要国では一斉にサウジアラビアから撤退を始めました。カタールとしては撤退する企業がカタールに戻ってきてくれれば、身代金を払ったとしても十分に元が取れるという判断があったのでは?と推測されています。
ある意味、いいタイミングで「シリアで捕らわれていた日本人ジャーナリストを救出したよ!」というアピールできたということです。
もともとテロには屈しないというのが先進国の態度で、日本としては、その前提を守ったわけですが、なかなか難しい複雑な問題といえます。
今回、日本政府は2015年に発足した邦人テロの情報収集に特化した専門組織を活用したといわれていますが、日本と友好関係にある中東各国との連携を重視し、今回の解放ではカタールとトルコの協力があったとされています。今回安田さんが、どういう形であれ、無事救出に至ったことをみれば、この組織を作ってよかったということになるでしょう。
こういうものこそ、利益追求を目的としない非営利団体組織の国家でしかできないことです。特にこうしたテロ事件などの海外で問題が発生したときにこそ、政府が一人の国民も殺さないように助けにするということは大事だと私は考えます。
皆さんは「プライベートブライアン」という映画をご存知でしょうか?
この映画は1998年7月24日に米国で初公開された戦争映画なのですが、アカデミー賞を受賞したスピルバーグ最高傑作作品とされています。内容は、ノルマンディー上陸任務の後、ミラー大尉以下8人の兵士が行方不明のライアン二等兵救出を命ずるという作品です。
また同じ戦争映画では、「ブラックホークタウン」という作品もあります。この作品は2001年12月18日に米国で初公開となりましたが、この作品はソマリアで発生した「モガディシュの戦闘」を舞台とした戦争映画です。モガディシュという市街地において、米国中心の多国籍軍とゲリラとの間で激しい市街戦が行われました。
ソマリアのモガティシュ市街戦では、米国のヘリコプターが攻撃を受け、取り残された操縦士一人を救おうと、デルタフォースの隊員2名が降下し、ヘリコプター操縦士を救出したものの、民兵ゲリラによって殺害されました。
その殺害された米兵の遺体が全裸にされてソマリア市民に市街地を引きずり回されるという凄惨な映像が放映され、当時は大きなニュースとなりました。
「プライベートブライアン」も「ブラックホークタウン」も象徴的なのは、一人の軍人を救うために、大勢の軍人が投入され、救おうとされる人数よりも多くの人々が亡くなるリスクがあっても助けようとすることです。
これは軍隊の話ではありますが、ある意味で国家の本来的な意義、政府の本来的な意義というのは、こうしたことではないだろうか?と私は思うのです。
強い信頼関係があって初めて国家はナショナリズムとしてまとまります。だからといって、積極的に危険な場所に身を投ずるということを賛美してはいけません。とはいえ、自己責任という問題があっても、そんな人間でも助けるというのが、国家というものではないでしょうか?
未だに横田めぐみさんを救出できないというのが、憲法9条が原因だとするならば、国家としては横田めぐみさんを救出するために憲法改正の議論をするべきでしょうし、後藤健二さんがISに捕らえられた時も、憲法9条が制約になっているのであれば、閣議決定でも何でも行い、自衛隊を派遣するなどするべきだったと思うのです。
というわけで今日は「一人を救うために何百人も投入し、救おうとされる以上の人々が亡くなっても助けるのが国家です!」と題して論説しました。
この種の話題がニュースとして取り上げられると、「自己責任」という言葉が蔓延しますが、私は全く賛同できません。「自己責任」というを言う人は、国家の本来的な意義、政府の本来的な意義を考えたことがない思考停止者と言いたくなるのです。
安田純平さんは救出されましたが、同じように横田めぐみさんも救出されることを改めてお祈りしたいです。
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- 2018.10.29 Monday
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- by 杉っ子